デポロジューに平和を守る覚悟を説いた魔術師。
大きな混乱のない現在のアデンで、なぜ彼はその覚悟を説いたのか。
それには、過去の痛みを伴う記憶が関係していた……。
Prologue - Memories
「おう、先生、先生!先生よう!久しぶりだ。どうだよ、調子は。」
オークの声が空き地に響く。
「苦労したんだぜ、先生よ。見てくれよ。草を刈って、石をどかして、土をならして。どうだい、ちょっとしたもんだろう。」
確かにそこは以前、草が生い茂る野原に過ぎなかった。これほどの広さの空き地を作るのには、相当な労力がかかった事だろう。
「先生、俺はよ、ここから始めて、人間の社会で成功してやるんだ!」
にかり、とそのオークは笑った。
*
「ブレット、シューティングスター、エルヴンアロー、ファルコン、ライトニング。どうだ、かっこいい名前だろう!?」
一列に並べられたスライムを順番に指さし、オークはそれぞれの名前を呼んだ。
「さあ、先生。始まるぜ。俺の夢の第一歩、『スライムレース』がよ!」
失敗する事など、まるで頭の中にないのだろう。オークの表情は自信に満ちあふれていた。
「お、新顔のスライムが来たぜ。よし、お前もレースに参加させてやる。名前は、そうだな、うーん『サイハ』でどうだ?」
*
「だめだなあ、先生よう。参っちまったぜ」
オークは弱ったように頭をかいた。
「レースは結構成功したんだけどな。俺の故郷が人間に支配されちまってよ」
「上納金の要請がきついってんで俺に泣きついてきたんだ。」
腕を組んで首を傾け、ううむ、と唸る。
「このままじゃだめだ。共倒れになっちまう。いっちょ、コカトリスでも捕まえてきて、スライムの代わりに走らせてみるか。コカトリスレース!こいつはうけるぜ!」
*
「あ、先生じゃねえか。へへへ、恥ずかしいところを見られたな。失敗だよ」
「いや、コカトリスを捕まえてレースさせることまでは出来たんだが、逃げられちまった。あいつら強いのな。」
*
「先生よう、今度は花火売りに来てもらうことにしたんだ。レースがもっと盛り上がればいいな!」
*
「先生、先生よう。こんなのはどうかな・・・」
*
「先生よう・・・」
Chapter 1
善王「デューク=デフィル」との血縁が噂されるアデン王国の名士、君主「デポロジュー」。
彼が平和を守る覚悟を取り戻すように呼びかけ始めてから、いくばくかの時間が過ぎた。
夢幻の島での訓練。そして象牙の塔の長老「タラス」が施した魔術による実りを集めた、戦への備え。
アデンに住む人々は平時にあって乱を忘れない、その心得を取り戻してきていた。
アデン大陸の西に、グルーディン村からウッドベック村へと続く街道がある。
転移魔法が一般化した現在のアデンでその街道の利用者は減っていたが、珍しくそこを歩む、ローブをまとった男の姿があった。
その名を知る者は少ない。呼ばれる名も、「ニドラフ」とも「ニドラ」とも、行く先々の場所、訪れるその時々で変わる。
デポロジューに危機感の欠如を説いた魔術師だ。
瞬間転移の魔法を使える身でありながら、彼はこうして街道を使い、町と町を移動することを好む。
また、様々な姿に身をやつしながら、町の人々と交わることも多い。
彼のことを知る者であれば目を見開いて驚くだろう。
町の人々の前で彼は、間の抜けた表情、ひょうげた仕草を見せ、素っ頓狂な声をあげてみせる。
そんな彼のことを「先生」と呼んだオークがいた。名前を「ゴラ」。
グルーディオ領に複数存在するオーク氏族の一つ「アグニ」族の族長だという。
オークは狩猟に依る生活に誇りを持つ。農業すら軟弱視するほど、武勇を尊ぶ種族だ。
しかし、ゴラはオークの異端者だった。人の社会へと積極的に関わり、溶けこみ、商売、興業での栄達を夢見た。
グルーディン北の野原を開拓し、野生のスライムを飼い慣らし、ギランのレース場を模した「スライムレース」の運営を始めた。
人間による故郷への侵攻、興業の不振。彼に悩みは多かったが、オークらしい生命力にあふれたその顔は、いつも笑顔だった。
ブレット、シューティングスター、エルヴンアロー、ファルコン、ライトニング、そしてサイハ。
仰々しい名前を付けられたスライム達の、必死に走る姿。
「人間社会で成功を収めたい」と、不器用な商売を営みつつも、夢を語るオークが浮かべた、いかつい笑顔。
他の人々が顧みることは少なかったが、魔術師はそれらが好きだった。愛おしかった。
しかし。
反王「ケン=ラウヘル」の圧政から解放され、平和を享受していた町を、影の集団が襲った。
アデンから地下世界へと逃げ落ちた反王にそそのかされた、ラスタバドに住むダークエルフ達の襲撃だった。
そして、形あるものは崩れ落ち、命あるものは命を奪われた。
魔術師を「先生」と呼んだオークは、今はもういない。
仰々しい名前を持ったスライム達も、今はもういない。
「人間社会で成功する」そのオークの夢の跡地には慰霊碑が立ち、救われぬ魂が毎夜、さ迷う場所となった。
Chapter 2
久々にグルーディオ地方を訪れたからだろうか。それとも、デポロジューに平時からの戦への備えを説いたからだろうか。
多分、その両方だろう。
魔術師はゴラのことを、その仲間のオーク達のことを、レースで走っていたスライム達のことを思い出していた。
それは胸に痛みを覚えることでもあったが、彼らに抱いていた好感、その記憶は微笑ましいものだった。
わずかに、魔術師の唇に笑みが浮ぶ。だが、すぐにその笑みは消え去り、彼の表情が緊張にこわばった。
ウッドベック村に向かって歩いていた街道の左脇、木々が生い茂る森の中に、奇妙な気配を感じたからだ。
それは、かすかな気配だった。一般人では気づかないだろう。冒険者でも、森の獣と勘違いするかもしれない。
だが、彼は幾度もの修羅場を潜り抜けた熟達者だった。ただ事ではない、と直感する。
魔力を感知されないよう、あえて姿隠しの魔法は使わず、森とは街道を挟んで逆側に生える木の陰に、魔術師は身をひそめた。
息を殺す。自らの気配は悟られぬよう、しかし感じた気配を見失わないよう、意識を集中する。
やがて、折れること、音がする事もなく、森の中の草が左右に分かれた。
わずかに、ほんのわずかに、街道の土埃が重さに沈む。 街道を吹き抜けていた風の流れが少しだけよどんだ。
(ダークエルフ、だな。アサシンギルドの者ではない。ラスタバドか。)
景色の微かな変化を見逃すことなく、そこにいるであろう存在を見透かし、冷静に魔術師は判断した。
「・・・・・・」
気配は消える様子がない。
(探しているな、私を。だが、見つけ出せはすまい。)
体術に不慣れとは言え、彼ほどの熟達者が本気で気配を隠せば、それを見つけ出すのは困難を極めるはずだった。
「・・・・・・」
さらに、しばらくの時間が経過する。
だがやがて、風の流れが元に戻り、街道の土埃が重さに沈み、森の中の草が左右に分かれて、元に戻っていった。
そして、氷が解け、水が空気に消えるかのように気配は消え去った。
その後、なお十分な時間を置き、安全を確認してから魔術師は転移の魔法を使った。目的地であったウッドベックの町へと到着する。
街道の景色を楽しんでいる場合ではなかった。すぐに宿をとり、部屋の中で彼は思考しはじめた。
(あのダークエルフは只者ではなかった。幹部、少なくとも師団長クラス以上の使い手だったはずだ。)
(今、この時になぜ、それほどの使い手が身を潜めながらアデンに?)
答えは始めから分かっていた。あえて考える時間を持ったのは、その答えに説得力を持たせるためだった。
すなわち。
(アデンが攻撃される。それも時の亀裂や、暗黒竜の目覚めのような偶発事ではなく、明確な、敵意を持った襲撃が起きる。)
Chapter 3
今日のこの日、あの時、あの街道を魔術師が歩いていたのは、何の巡りあわせだろうか。
ゴラの事を思い出していた時に、ダークエルフの気配に気づくとは。
彼は運命を感じざるを得ない。
(ゴラよ、お前か。お前が私に、あのダークエルフを気付かせたのか。)
彼は目を閉じ、かつて、ラスタバドの勢力に襲撃を受けたグルーディンの町を思った。瞬間、彼の脳裏にある光景が浮かび上がる。
幻覚を見た、とさえ言っていいだろう。その光景はそれほどの鮮明さを伴っていた。
宿屋が、店が、家が炎に包まれる。逃げ惑う人々、泣きわめく子供。
その中でゴラは、彼の仲間は、スライム達はどんな思いでいたのだろうか。
あえて深く思わないようにしていた胸の痛み。それをはっきりと認識し、掘り起こした魔術師はしばらくうつむき、胸に手を当てた。
その手が、やがて強く握りしめられ、拳に変わる。
彼の全身を怒気が包んだ。ローブの下の髪が逆立ち、魔力がほとばしる。
見る者が見れば、それはまるで、彼を中心に小さな竜巻が起こったかのように見えただろう。
いくらかの時間を要して感情の高まりを収め、魔術師はデポロジューへ風雲急を告げるべく、宿屋を後にした。
転移の魔法を使う前に、彼は自らの決意を口にする。
「やらせはしない。絶対に、二度とやらせはしない。絶対にだ。」
高まる戦いの予感。ニドラフの警告を受けたデポロジューはどうするのか。
襲撃はどのような形で起きるのか。アデンに嵐が起きようとしている。